日豊日記:2014年5月

2014-05-05

53年の歴史を振り返って

ピーポーでキハ20の4両運転[1]をするという事なので,倉敷まで出掛ける。晴れだったら朝一番から出掛けている所だが,雨なので特に急がない。

倉敷市駅10時20分発の水島行に乗るが,沿線はどこから来たのかという程のカメラの砲列。適当にしか数えていないが,全線で150人くらいは居たのではなかろうか。またそれに対応して,車内と駅と沿線ではピーポー関係者が20人程度。乗客もそこそこ多いが,4両編成なので1人1ボックス程度の乗車率といったところか。

乗客が乗客なら車掌は車掌で,国鉄気動車の標準チャイム「アルプスの牧場」とJR四国の標準チャイムを鳴らしてアナウンス。四国の車両だったとはいえ,鳴らせるという事を初めて知った。

水島との間を1往復半乗って,雨が上がったので水島駅から三菱自工前駅へ。車両が回送されてきた後は当然ながら撮影会。社員ですらカメラを持っているのだからなんというか。元から車庫北側の道路は,トラックの路上駐車を前提として片側3車線で作っている様な所ではあるが,約30台が路上駐車しているとなると多い。

解結作業があるとはいえ,前照灯を点灯したまま1時間もアイドリングしておくのだからサービスの良い話である。

[1] キハ20の4両運転
ピーポーこと水島臨海鉄道で4両運転をするのは,基本的に団体等での増結しかない。
実質,キハ20の引退記念列車として走らせているので,次に水島のキハ20について概要を説明する。
水島の4両は,1960年10月~11月に国鉄の車両として日本車両で製造され,四国各地に配置。1987年2月~3月に廃車の後,水島へ譲渡。
小湊鐵道やひたちなか海浜鉄道辺りと車両の古さを競っていたが,53年という経年から引退の予定。

2014-05-12

最終列車の乗客達

朝から水島へ。今日の目的はピーポーの取材になるが,キハ20の定期最終列車とキハ37の出発式の両方に行くので,朝から夕方までやる事は多い。

まずやる事は車両運用の調査で,水島色のキハ204,キハ208と,国鉄色のキハ203,キハ205のどれが走るかということから。元々,5日の運用で205が白煙を上げていて,6日から修理をしていた関係から,7日朝から9日朝までの運用は水島色の2両だったようだが,9日夕の運用から国鉄色の2両になったので,結構こだわりがあるのだなと感じた次第。

月曜日なのでさすがに人は多くないが,地元民から遠方の人まで,熱心な人が20人位は居る。関東だったら何百人の世界であろうが,そこは岡山の話だけにスケールが小さい。

三菱自工前から最後の1往復に乗車する。最後だからといって特に目立った様な事はせず,淡々と列車は走る。倉敷市駅の折り返しともなると9時ちょうどの発車になり,乗客30名程の大半は,明らかにわざわざ乗りに来た人と認められる。『いつもと同じ春』だと辻井喬の小説になってしまうが,いつもと変わらず定刻に,沿線では30~40人程度の撮影者に見送られながら,最終列車は三菱自工前に到着した。

出発式に来る人々

三菱自工前のホームに降りた次は,キハ37の取材である。元々10日の時点で,ヘッドマークを付けて,車内にはモールを飾り付けて,出発式の準備は終わっていたのであるが,南側のヤードに5両を動かして,車両の安全祈願。これ自体は完全に社内の話ではあるのだが,各所から関係者以外の人が集まっている。

次は水島駅に移動して,出発式の取材。10時39分に列車が到着するが,普通に4両の停車位置へ停めると絵的に問題があるので,わざわざ1両をドアカットして手前に停車するというこだわり。ホームの長さが4両分しかないので,車両の顔を見せようと思えばこういう停め方をするしかない。さらに,出発式の為にエンジンも止めるという念の入れ様を見せる。

基本的には出発式も内輪に近い話で,時制を無視して13日の山陽新聞を出すと,水島駅(同市水島東千鳥町)で約80人が出席して出発式がありとなっているが,約80人の内訳を考えるに,ピーポー関係者約20人,五福関係約30人,来賓関係約20人,報道関係約10人なのではないかという話。関係者以外も約20人は居たが,何れにしても,水島駅のホームに100人も居たら,物置でなくても狭いので,月曜の大安に出発式をしたのは妥当だったと思う。

時制を戻して,11時過ぎから出発式。基本的にこの会社,社長が来ない[2]ので,まずは川崎専務の挨拶から。車両探しの苦労と今後の車両保存についての話を聞いた後,来賓の祝辞。その次は水島駅の北側にある第五福田,略して五福の幼稚園・保育園の子供達による合唱。今の時代は赤白帽にも棒垂布を付けるのかと見ていたが,「こども溶接士」「こども日本兵」と考えると,何か愉快な話の様な気もする。

この時点で11時31分の発車時刻になっていたがまだ式典は続き,こども溶接士からおとな運転士への花束贈呈を行ってから,急いでエンジン始動。テープカットを行い,「こども駅長」の出発合図にて,6分遅れで列車は出発。

[2] 基本的にこの会社,社長が来ない
水島臨海鉄道の社長というのは,倉敷市長のあて職である。

残す車と予備の車

列車には乗らずに三菱自工前の先へ。しばらく残す予定のキハ205と,予備車のキハ30 100が連結されているのだから準備がいい。ただし,キハ30は非冷房車なので,秋口まで運転の予定は無いのではないかとの事。

個人的には,キハ20は水島で,また大糸線や米坂線でキハ52に相当乗ったので色々と思い出があるが,キハ30は7年前に久留里線でたまたま乗った位で,あまり思い出が無い。その時に乗ったのが,部品取り用のキハ30 98なのは偶然か。

4両編成の列車が帰ってきた所を狙って撮影し,程々に撮影をしてから帰る。

2014-05-25

ジェットカーに乗って

所用で新大阪へ。大阪へ行ったからといって何かしたいという事もなく,むしろ,名古屋や東京に行きたいと思う所でしかないので早々に帰る方向に。

どうせなら阪神電車のジェットカーにでも乗ろうかと思い,JRで大阪に行き,梅田から阪神電車で三宮へ。JRなら大阪から尼崎まで2駅,大阪から三ノ宮まで13駅のところを,尼崎まで8駅,三宮まで31駅に停車するのだから先は長い。

阪神電車の普通電車,俗に青胴車やジェットカーと呼ばれるものは高加減速運転が特徴であるが,加速は確かに早いものの,減速となると信号システムの関係なのか,2段階に分けて減速するので,あまり体感的な速さがないのが面白くないところ。75分程度で三宮。

三宮駅から歩いて,JR三ノ宮駅の東側にある神姫バスターミナルへ。JRの高架下にバスをバック駐車する光景は,本当にここは都会なのかと思う。狭い待合室で時間を潰し,岡山行の高速バスに乗る。

この三ノ宮駅から岡山駅までの高速バス,やたら回数券が安い事で知られていて,大阪駅―岡山駅の高速バスが片道3150円・回数券4枚綴りで11600円するのに対し,片道2850円・回数券4枚綴りで7200円という安さが特徴。金券ショップの相場では1枚2000円程度なので,大阪まで電車に乗ったとしても往復5000円は掛からないが,本数が少ないので時間には注意。

バスは三ノ宮駅を出ると東へ進んで阪神高速32号に入り,阪神高速7号と神戸淡路鳴門自動車道を経由して山陽自動車道へ。岡山県に入って福石PAで小休止を挟みながら,岡山駅まで2時間35分で定刻に到着。時間より安さを気にするのであれば,おすすめの路線である。

2014-05-27

廃車解体の作業

昼間にピーポーの車庫へ。キハ204とキハ208の解体がもう始まっていた。

車体をクレーン車で吊って半分に切って,トラックで運ぶ段取の様だが,今のスクラップ相場を考慮しても,最終的な手取りが2両で100万円行くのだろうかと考えてしまう。

それ以前にこの時代の車だと,石綿というかアスベストの事を考えた方がよいのかもしれないが,特に対策はしていない様なので除去済なのであろう。

午後は用事があったので立会が出来なかったが,夕方に来たら2両とも完全に撤去されていたので仕事が速い。

© Keisuke Uchida 2014
URI:https://www.conductorless.org/diary/2014/05
公開日時:2014-05-07T20:55:00+09:00
更新日時:2014-06-02T21:30:00+09:00